社会政策学会 談話室





伊藤 セツ

新川士郎先生没後10年に思う

      

  2004年5月22日は、師、新川士郎の没後10年であった。この日は丁度、社会政策学会第108大会が法政大学多摩キャンパスで開かれており、総会では私は会計監査役だった。夜の懇親会で、荒又重雄先輩(新川先生の後を継いで北大経済学部の教授となりやがて釧路公立大学の学長となった)と10年前のことを話し合っていた。私たちは、戦後北大経済学部に社会政策学の講座をたちあげた新川士郎の薫陶をうけたものであり、その学恩のおかげで今在るものである。
  12年前の、1992年、私も勤務先昭和女子大学を会場として社会政策学会第84回大会が開催されたとき、新川先生はもう上京することはかなわなかったが、会場校の責任者を務めた私をじっと見守っていた。私が役員に任期制もない古い体制の社会政策学会に推薦幹事として指名されたのが、石畑良太郎代表幹事の1990年のことであった。それから2年後、昭和女子大学を大会の会場校とした時の共通論題こそ社会政策学のジェンダリングの幕開けを告げるものとなった(私は雑務に忙殺されて、そのことは後で認識した次第ではあるがー)。その時、故加藤佑治代表幹事の発足と同時に、私は選挙による選出幹事となった。1994年5月、新川士郎名誉会員の訃報に対し、学会からの弔電は加藤佑治代表幹事の名で出されている。新川先生の追悼文集は先生の弟子の社会政策学会会員の手で出された。そのあと二村一夫代表幹事、高田一夫代表幹事時代も任期制の無い社会政策学会の幹事会に私は貼り付けられたままだった。選挙の仕方が問題だった。
  推薦幹事になったときから、私は学会の旧い体質に疑問を感じていた。会場校を引き受けて第84回大会を主催したときはそれが噴出して、学会の改革に踏み出す以外に私が幹事として存在することは最早無意味と思うにいたった。すでに矛盾だらけの旧体制を温存しようとする発言や、無意識の保守的言動にはことごとく異を唱える立場に立った。
  1997年の夏、所用で故郷の北海道に滞在しているとき、当時の高田代表幹事から次期代表幹事を引き受けてほしいとの打診が電話で入った。新川先生亡き後、札幌を訪れる時は、先生の遺影の前で夫人とお話しするのを常としていたので、翌日新川家を訪ねて、夫人に電話の件をそれとなくお話してみた。「新川が生きていたら、あなたが引き受けられることきっと望みますよ」と夫人は言われた。帰京した私に夫人からはがきが来たが、そこには「新川の夢をみました。喜んでいました。ぜひお引き受けなさい」と書かれていた。
  こうして私は、亡き恩師の気配を感じながら、学会史上はじめて女子大、その名も女性文化研究所に本部事務局をおき、1998年から2000年期に、100年の伝統ある社会政策学会のこれもはじめての女性代表幹事となってしまった。1990年代を通じて、特に後半、二村一夫代表幹事時代にはっきりと眼に見えるうねりとなり、高田一夫代表幹事が苦労を重ねていた学会改革を急テンポで進めることになった。学会のホームページはすでに二村先生の手で立ち上げられており、ジェンダー部会も発足していたが、これまでは資格のなかった修士課程の院生入会者第一号(私のところの院生であったが、彼女はその後、博士号を取得し、学振の特別研究員となり、母校に就職を果たした)を迎え、学会事務の外部事務センターへの委託の決行、学会報告要旨集の大胆な改革、郵送による任期制を導入した全会員選挙の実施、学会誌の改革の第一段階などが、2年間に現実のものとなっていった。
  落選を覚悟で、社会政策学会としては日本学術会議会員はじめての女性候補者として、大沢真理氏を立てた。この間、幹事や会員の協力を得て、学会のIT化が急速に進み、連日パソコン上での学会運営が行われた。1999年9月、はじめての郵送投票の準備が、日本にいる二村選挙管理委員長と、アウグスト・ベーベルの研究と称してチューリヒのプチホテルに逃避していた私との間でコンピュータの技術上の緊張関係を伴いながら連日進められていた。今となってはこのことが遠い昔のように思われる。こうした改革は、上井喜彦代表幹事、森建資代表幹事に引き継がれていったが、当時私は島崎晴哉会計監査(石畑代表幹事の前の代表幹事)に「学会の長い伝統の暖簾を降ろす気ですか」と問いただされたものであった。代表幹事2年の終わりが近づいたとき、これまでのどの代表幹事も感じたであろう疲労感と大会準備の緊迫感のなかで、新川士郎の弟子であることを思った。歌人である新川新子夫人に、突き上げてくる師への思いを歌ったつたない10首を書き送った。上井喜彦代表幹事にバトンタッチを済ませた、2000年の夏、札幌の新川宅に報告に行った。夫人はご高齢で病を得ていたが、そのうちの一首をそらんじるよう詠じられて、言葉少なに「簡潔にお書きなさい。簡潔にね」といわれた。
  それから3年がたった2003年、新川先生の弟子で社会政策学会の名誉会員であった三好宏一先輩が逝き、新子夫人も他界された。2004年3月、私は、かって社会政策学会の本部をおいた昭和女子大学女性文化研究所を、所の『研究叢書第4集 ベーベルの女性論再考』(御茶の水書房)の上梓を最後の仕事として去り、4月から大学院生活機構研究科委員長の任に就いた。思えば新川先生が北大大学院経済学研究科長を努められたのは、私が大学院を出てすでに就職していた1969年のことであった。
  冒頭に記したように、新川士郎没後10年の命日2004年5月22日に、第108大会の初日を終え、新しい玉井金五代表幹事を選出して、社会政策学会は、本部をはじめての関西(大阪市立大学)に移すことになった。こうして学会の歴史は前へ進んでいく。新幹事会体制のなかでは、会計監査としての私が、最年長級のひとりになってしまったようである。「光陰矢の如し」を実感する。



〔2004年6月14日寄稿〕





Wallpaper Design ©
 壁紙職人Umac